病院に搬送され、救急処置の後、ベッドの上に4時間ほど寝ていると、打撲の痛みと、姿勢を変えられない(寝返りが打てない)ことによる痛みが腰から背中に襲ってきて辛くなり、看護婦さんに「ベッドの角度を変えて上半身を起こせませんか」とか「せめて腰の下に枕でもあててもらえませんか」とお願いしてみたのですが、とにかく朝の精密検査までは安静にしなくてはならないとのことで、耐えるしかありませんでした。これが非常に苦しい。めったに弱音を吐かない私ですが、呼吸に合わせて呻き声が出てしまいました。感じる本人によるのでしょうが、「生き地獄」とはこんな感覚なのかもしれません。
しかし、この時思ったのです。「戦争の時の野戦病院には、足がちぎれる等、私よりもっと重傷な人が担ぎ込まれ、現代医学や日本の医療よりも劣った状況で、満足な痛み止めもなく喘ぎ苦しんでいる人がいる(いた)のだろうな」。原爆投下後の病院で、不衛生な為に体から「うじ虫」が湧いた患者さんの写真を見たことがありますが、「この人達はさぞ辛かったんだろうな」と。
その人達に比べれば私の苦しみなんて微々たるものでしょうが、それでもやっぱり辛かったです。
いろいろとお世話してくれる看護婦さん達は、私に対し二通りの反応を示してくれました。一つは「関さん、高速道路の事故でこの程度の怪我で済むなんて運が良かったね~」という反応。もう一つは「関さん、人を助けに行って、あんただけが怪我するなんて運が悪いね~」です。私の症状や、事故に遭った状況は同じ (事実があるだけ)であるのに、看護婦さんによって「良かった」と感じる方と「悪かった」感じる方がいたのです。物事には全て表裏(二面性)があるものだと思います。そのどちらを見るのかによって、人生もずいぶん変わってくるのかもしれません。
人間は、自分の死を認識できないと思います。「死にそうだ」ということは分かっても、今死んだということは分かりません。死ぬと同時に意識もなくなるからです。ですから、死にそうな恐怖はあるかもしれませんが、死の恐怖は存在しないのではないかと感じました。