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子供が2歳になりました

  • 2006年05月26日(金) 00時00分
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 言葉を話し始めるし、意思表示もうまくなってきたし、コミュニケーションも少しづつとれるようになってきました。走る(早歩き?)のも早くなってきて、「2年間でこれだけ身に付けるものなんだ」と感心してしまいます。

 たくさんの方から「お古」を頂いたので(服・布オムツ・絵本等)、これまでに子供に使ったお金はほんのわずかです。

 さて、自分も親となったことで、他の親子を観察する眼も鋭くなってきました。

 ここ数年気になるのは、親が自分の子を自分の所有物と勘違いしているんじゃないかという人を時々見かけることです。極端な言い方をすれば、自分のアクセサリーと勘違いしているような状況にも見えることがあります。

 子とはいえ、ひとつの魂で別人格です。子は、この世ではまだ未熟なので、親として教えなければならないこと(この世のルール)はありますが、それは、たまたま先に生まれてきたからであって、人として親が優れていて、子が劣っているというわけではありません。命の尊さ・素晴らしさにおいては全く等しいと思うのです。

 そんなことも考えながら、ひとつの生命と、まだ汚れていない心に接した貴重な2年間でした。

生きる力(エネルギー)はどこからくるのか

  • 2006年03月29日(水) 00時00分
  • 分類:日記
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 身体の生きる力は、食物から栄養を取ることです。

 精神の生きる力は「自分は価値があるのだ」と感じることだと思います。

 ただ、自分の価値を感じるためには二つの方法があります。一つは、他者との比較・競争において優位または劣位でない(「世間並み」はこの範疇に含まれる)ことによって感じることができるが(相対的価値)、そのためには常に他者に注意し、観察しなくてはならず、更に他者からの評価も気にかけなくてはなりません。この方法では、安らぎや足るを知る心境にはなりにくいと思います。

 もう一つの方法は、他者との比較競争ではなく、己自身の中にかけがえのない素晴らしさを感じることです(絶対的価値)。この方法では、人に優しくしたいとか物事を達成するために他者を観察することはあるが、他者の評価を過剰に意識する必要はなく、安定した気持ちを持続しやすいのです。最近の教育界では自己肯定感と言っていますね。

 自殺者や凶悪犯罪の増加、子供の変調、戦争、社会不安の増大をはじめ、現代社会の諸々の問題の根本原因は、多くの人が相対的価値によって自らの生きる力を得ようとしていることにあると感じています。

 現代人は、幼い頃から他者との比較競争の中で育てられています。幼いが故に絶対的価値を知らないので、親から認められ愛されることによって「自分は価値があるんだ。生きていいんだ。生きるって楽しい」と感じ取ろうとするのです。子供は、生きる力(愛情)を与えてもらうので、親が大好きです(親が全てかもしれません)。親からの虐待を受けている子で「親は悪くない」とか「虐待を受けていない」と言う子が多いのはそのためです。

 その親が、成績がよかったら誉め・愛し、成績が悪かったら「もっと頑張れ」と言い・怒ったとしたらどうなるでしょう。子供は、親から認められ愛されないと生きる力を失うので、親の基準(人よりもとか、人並みにといったハードル)を何とかクリアしようと精一杯頑張ります。しかし、他者との比較においては、自分が努力しても望み通りの結果がでないことは多々あり、そのたびに親からの疎外感にさいなまれ、徐々に生きる力を失っていき、ひどい場合には精神に異常をきたしてゆきます(その異常なエネルギーが外に向けば殺人などの犯罪につながり、内に向けば引きこもりや自殺につながります)。成績に限らず、「○○チャンはもう箸を使える」とか「みんなは自転車に乗っている」といった基準で子供を評価することも同じでしょう。

 このように、まさにモノゴコロのついたときから比較と競争の世界に放り込まれ、自分への評価を過剰に気にし、自らの生きる力・生きる価値・生きがいを相対的価値によって感じ取ろうとする人生がスタートします。

(礼儀作法や道徳を教えなくて良いと言ってるのではなく、そのベースに愛情が必要なのだと思っています。例えば、口やかましかった学校の先生で、卒業後にまた会いたくなる先生と、もう二度と会いたくない先生がいますよね。その違いは何かというと、前者は生徒に対する愛情から叱り、後者は自分の都合や正しさから怒ったのだと思います。)

 もし、親が子の存在そのものを認め・愛したとしたらどうでしょう。

 五体不満足の著者である乙武さんが生まれたとき、お母さんが「なんてかわいい子でしょう」と言ったそうです。「なんで我が子に手足がないのだ」とか「かわいそう」といった言葉ではなかったのです。つまり手足があるのが普通という基準で子を判断したのではなく、存在そのものを愛したのです。存在そのものを愛され・認められた子は、人と比べてではなく、自分自身そのものの素晴らしさを体感して、自分を愛し・信じ・認めるようになります。そして、自分を愛し・信じ・認めることができた時に、他人を愛し・信じ・認めることができるようになるのです。自分のことさえ愛せないのに他人を愛せる、自分のことさえ信じれないのに他人を信じられる、ということは非常に難しいものだと思います。

 世界の先住民族には様々な大人になる儀式が存在します(先住民族は物質的に遅れた人たちなのではなく、精神的に進んだ人たちだと思います)。断食だったり、孤独な山ごもりだったり、バンジージャンプであったり・・・・。私が感ずるに、これらの儀式を通して自分を見つめたり、達成感(=自信)を得たりしている気がします。つまり、先住民族における”大人”の定義は、「自分で自分の絶対的な素晴らしさを感じていること」なのだと思います。そして、自分で自分の素晴らしさを知っている人は不動心(「我がまま」ではなく「我が・まま」)を得て、いろんなことに左右されなくなります。いろんなことに左右されないから、物事を有りのままに見つめて最善の選択ができます。最善の選択ができるから、周りの人たちにも認められ、いわゆる長老となっていきます。

 翻ってみて、今の日本には本当の意味での大人がどれほどいるでしょうか。体は大人でも、精神的には子供(他人の評価を生きるエネルギーにしている人)が多いといわれています。今の日本の惨状は、本当の大人が減少したことによると思うのです。でも、本当の大人になるのは簡単です。以前にも書いたように、比較と競走の社会に埋もれて自分の外ばかりを見るのではなく、一度立ち止まって自分自身を見つめる(自分の感情・思い癖・正しさ・生い立ちなどを見つめる)ことによって、自身の絶対的な素晴らしさに気付くことができるのです。

聾学校卒業式

  • 2006年03月09日(木) 00時00分
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 今日、県立長岡聾学校高等部・専攻科の卒業式に招かれ、出席してきました。

 卒業生代表の挨拶は「健常者と障害者の壁がなくなり、対等に付き合える世の中を目指して努力していきます」という旨の言葉で締め括られました。「ああ、この子らも苦労しているんだな」と感じるとともに、この年でこのような決意をしなければならない世の中に政治家として存在している自分自身の責任も強く感じました。

謹賀新年

  • 2006年01月03日(火) 00時00分
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 昨年の事件・事故を見ていると、いよいよ20世紀型社会が終焉するのだと感じます。

 他者との比較によって自らの相対的価値を認識することに重きを置いたり(故に競走が激化するのですが)、お金が一番大切というのが20世紀型社会の価値観だと思います。それに対し、自身の絶対的価値を認識したり、お金は大切だけど一番ではない(一番は自分らしさや愛情や義理人情など)というのが21世紀型価値観です。日本人の3割を占めると言われているLOHAS(ロハス)層も新しい価値観の現れだと思います。

 しばらくの間は20世紀型と21世紀型の価値観がせめぎ合うと思いますが、変革への流れは止めることができないでしょう。この流れを加速させるべく努力しますので、本年もご指導の程宜しくお願い致します。

LOHAS = Lifestyles of Health and Sustainability の頭文字をとった略語で、健康を重視し、持続可能な社会生活を心がける生活スタイルである「LOHAS」ローハス(ロハス)が米国で注目されている。今までのような生産と消費を続けては環境破壊が進み、持続性のある経済も維持できないと企業や国が少し気が付いています。一般の人々も「このまま行くと何か変だな!続くのかな?」と感じてきています。明確なロードマップがなく、立ち止まっている。かといって『昔の暮らし』や『貧乏な感じ』、『攻撃的な環境運動』もイヤだなと思っていて、一番オシャレな自分らしい生き方を考えるとLOHAS的な生き方になってしまう。そんな人達が拡大しているというのが、ちょうど今なのです。(NPOロハスクラブのHPより)

夜回り先生

  • 2005年11月10日(木) 00時00分
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 長岡東中学校創立70周年記念講演で、夜回り先生として有名な水谷先生がお話されました。

 現在、ヤンキー先生など何人かの有名な先生方がおられますが、私は以前から「水谷先生は本物だ」と思っています。水谷先生は自己肯定感が強く、生きる力のメカニズムを理解され、その言動は深い愛情から発していると感じていたのです(他の先生方がニセモノという訳ではありせんが)。

 講演をお聞きして、何度か涙ぐんでしまいました。生徒達も泣いたり、メモしたりと皆真剣に聞き入っていました。
心に残ったメッセージのいくつかを紹介します。

・お母さんは、子から「お母さんの子でよかった」と言われるような母親になってください。

・今までに、手の指を潰された事や腹を刺されたことがある。でも、闇の世界の人たちは怖くてやっているんです。彼らは臆病なのです。彼らが一番恐れるのは、真っ直ぐに正しく生きることです。どうか皆さんも真っ直ぐに生きてください。

・(生徒達に質問して)「叱られたことと誉められたこととどちらが多いですか?(ほとんどの生徒が叱られたことのほうが多い)」 (母親に対して質問して)「夫から叱られたことと誉められたこととどちらが多いですか?(ほとんどの母親が叱られたことのほうが多い)」 私は生徒を一度も叱ったことはありません。夫は職場でけなされ・叱られ、そのはけ口を妻に求める、妻はそのはけ口を子に求める。でも子供にははけ口はありません。子供の異常さは大人に原因があるのです。

 これほど聴衆の心を揺さぶる講演ができる人は日本でも数少ないのではないかと思います。こんな先生や大人が増えるといいなと感じました。おっと、増えればいいなんて他力本願ではなくて、自分自身を先ず磨かなくては。

久しぶりの原付

  • 2005年10月11日(火) 00時00分
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 少し前に車庫の整理を行なった際、母が乗っていた原付(なんとなく懐かしい響き)が奥にしまってあったので出してみました。脳梗塞の母は医者から回復の見込み無しと言われているので処分しようかと思いましたが、私が乗ることにしました。

 原付に乗るのは大学生以来なので約20年ぶりなのですが、乗ってみると結構気持ちいいもんです。

 乗ってみて気付いたのは、道路にほとんど原付が走っていない事。思い起こせば、20年前は主婦や学生のライダーが道路にあふれていたように感じます。調べてみると、原付の販売台数は激減しており、代わりに軽自動車をはじめとした乗用車が激増しています。やはり日本経済は成長していて、多くの人が原付から乗用車へ乗り換えたのですね。

 経済成長といえば、先日外務省主催の「ブータンと国民総幸福量(GNH)に関する東京シンポジウム」に参加してきました。 GDPを幸福の指標としてきた先進国に問題を投げかけてくれており、国連も注目しているようです。私の訴えている「住民満足度の高いまち」に共通するものがありました。

 さて、私にとっての原付の長所は、渋滞を避けられることと燃費のよさ。燃費を計ったら、ガソリン1リッターあたり 25~30kmです。現在乗っている車(2001年型シビック)も燃費がよく、リッターあたり15~18kmですが(エコドライブです)原付にはかないません。(ちなみに、去年まで乗っていたサニーはリッターあたり11~14km)

 私の日常の交通手段はこれまで自転車か自動車しかなかったのですが、これに原付が加わったことになります。移動距離・天気・荷物などの条件に応じて、3つの移動手段から選択しています。

発展途上国

  • 2005年09月15日(木) 00時00分
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 アメリカが超大型ハリケーンによる被害を受けました。テレビキャスターやコメンテーターが現地からの映像を見て「先進国とは思えない。まるで発展途上国のようですね」とコメントするのを何度か聞いた。

 現地の惨状を見て何とかしなければという想いを表現したものだということは伝わるのだが、コメントした人の前後の話から「先進国なのに発展途上国みたいになってしまって大変(発展途上国が悲惨な状況であるのは仕方ないけど、先進国が発展途上国のようになると大変)」といった認識を感じました。日常的に悲惨な状況が続く発展途上国にももっと思いをはせなくてはならないと思います。

コメントした方の認識は推測であり(ギャップの大きさを表現したとも取れますし)、テレビを見た私の印象です。

政治家の説明責任と有権者の理解責任

  • 2005年09月10日(土) 00時00分
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 今回の選挙に際し、郵政民営化法案に反対した議員が「民営化には賛成だが、今回の法案は内容に問題があったので反対」とテレビ番組で発言する姿を良く見た。それに対して、みのもんた氏他数名のキャスターやコメンテーターが「そんなことではダメだ、良いのか悪いのか非常に分かりにくい」と様々な番組で発言していました。

 みの氏等の率直な感想なのでしょうから、それはそれで問題ないと思います。しかし、「民営化には賛成だが、今回は内容が悪いので反対」の意味が分かりにくいという感性に問題があるような気がします。私の感覚では十分に意味の通じる話だと思うのです(分かりにくいと言う人の気持ちも理解できますが)。例えが適切かどうか不安ですが、こんなことではないでしょうか、「ご飯は食いたいけど、この飯には毒が入っているので食べない(ちゃんとしたご飯が食べたい)」と言う人に、「食べたいのか、食べたくないのかどっちなんだ」と言う事。

 確かに、最近では議員や行政の説明責任が問われており、相手に理解してもらえるように話すことも絶対に必要なのです(私も、できる限り気を使って話します)が、有権者にも理解しようとする姿勢がなければ十分なコミュニケーションは取れません。

 今回の件で言えば、民営化賛成だが法案反対の方たちが、正しいと考える民営化の対案を出さなかったことも問題を複雑にしていると思います。

 「有権者は、よく見て、よく考えて投票を」と訴えているキャスターやコメンテーターもいらっしゃいまして、私はこちらのほうに共感を覚えます。

 政治不信を招いたのは、これまでの政治家(私も含め)の責任と思いますが、そういった人たちを選んできた有権者の責任も考えなくてはならないと思います。

 総括しますと、政治家も有権者も相手の責任に強く焦点を当てるのではなく、自らの責任を全うすることに強く焦点を当て、自らの立場で出来ることを一生懸命やっていくことが政治の質を高めることにつながると思います。

フェニックスに感動

  • 2005年08月17日(水) 00時00分
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 長岡祭りのフェニックス、凄かったですね。

 私は自宅が花火観覧席の近くなもので、長岡花火を見続けています。UFO、尺玉80連発、ワイドスターマインが登場した時も大きな驚きを覚えましたが、今回のフェニックスはそれをしのぐものがありました。鳥肌が立ったのです。

 大きな反響があったとの新聞報道のなかで「足の悪い母におぶってでも見せたいのだが、今日も昨日と同じ時間に打ち上げるのか? との涙ながらの問い合わせもあった」という記事を見かけました。実は私も同じ気持ちになっていたのです。母も車椅子生活になってからは土手の観覧席で見ることができずにいました(自宅の窓越しに見ていました)。私は1日目に県外からのお客さんを連れて観覧席で見て感動し、どうしても母に窓枠なしに見て欲しかったのです(窓越しではフェニックス全体が見れませんから)。かといって車椅子のまま、又は背負って土手に上っても、あの人混みの中では危険なので、隣家の屋上に上げてもらって見せて頂きました(上り下りは大変でしたが)。その日もお客さんがあったのですが、そっちは嫁さんに任せて私は母の世話。おかげで母も感動したようです。

 さて、フェニックスには二日間で3000万円の費用が必要です。通常の長岡花火は二日間で8000万円とのことなので、その壮大さが金額からも分かります。今年のフェニックスは全国からの寄付で何とか打ち上げることができましたが、来年は長岡市民の寄付(心意気)で打ち上げることができたら素晴らしいですね。

 大雑把に計算すると、来年の2次合併後の新長岡市の人口が約30万人ですから、1人100円で可能、1/10の3万人が1,000円負担でも可能となります(長岡に編入される旧市町村の住民が長岡花火にどれ程の思い入れがあるかは不明ですが)。

アマゾン先住民族の予言

  • 2005年07月04日(月) 00時00分
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 少し前になりますが、米百俵賞の授賞式に参加してきました。今年の受賞者は「南 研子さん」で、彼女はアマゾンの森や先住民を守る活動を続けています。

 私自身もアマゾンへ行ったことがありますし、世界の先住民族から学ぶことは多いと感じていますので、南さんの講演を楽しみにしていました(アマゾンの森や先住民の状況は悲惨ですが)。

 南さんの講演で、以下の3つの話が印象に残りました。

3人の子供たちと森を歩いていた時、隠しておいたキャラメルが見つかった(文明社会のものをひけらかしてはいけないのです)。1個しかなかったので1人の子供に与えたら、その子は歯でキャラメルを3つに割って皆で分けて食べた。日本では、「自分がもらったんだ」と言って一人で全部食べてしまうのではないかとのことです。

先住民族にも会議がある。しかし、この会議は徹底的に相手の話や反対意見を聞いて結論をだすので、最終的に多数決になっても問題は起きない。

長老に「日本では幼児虐待がある」と伝えると、「そんな有りえないことを言うな(そんなウソを言うな)」と言われた。続けて、「だが、もしそれが本当だとすれば、お前の部族は滅びる」と言われた。

暴言3のパート2

  • 2005年05月24日(火) 00時00分
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 池田小学校事件について述べた暴言Ⅲの続きです。

 奈良県で小学生を誘拐・殺害した小林薫被告にも切ない過去があったことが分かりました。その他の凶悪事件の犯人も、両親との問題やいじめられた過去があると報道されることがあります。

 夜回り先生として有名な水谷先生も「人間性が破壊される人には辛く苦しい過去がある」旨の発言をしておられます。

 最近、被害者や遺族の立場を考慮すべきと言われていまして、それは当然のことだと思いますが、同時に加害者を生み出してしまったことにも意識を向ける必要があります。

運動会

  • 2005年05月22日(日) 00時00分
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 議員になると、地元小学校の運動会に招いて頂けるので行ってきました。

 毎年楽しく見ているのですが、今年は一つ気付いた事があります。

 50m や80m競走などで、走ってい途中にキョロキョロと他の選手(児童)の位置を見たり確認する児童が目につきました。1レース6人で走っていましたが、1レースか2レースに一人くらいづつそういった児童がいたと思います。(誤解のないように申し上げますが、そういった児童も一生懸命走っており、決して手抜きをしていたわけではありません)

 私が小学生だった時はとにかく全力で走っていたので、周囲の状況を見るといった行為は行なっていなかったような気がします(良い結果を出したいという欲が強かったのかもしれません)。自分がそうだったというだけで、当時も周囲を見回す児童がいたのかもしれませんが、そのような光景を見て私が違和感を覚えたということは、当時にはなかった現象のような気がします。

 このキョロキョロ現象が最近のものと仮定しますと、一つの理由が思い浮かびます。

 それは、常に他者が気になっているのではないかという事。つまり、他者との比較で、自分がどの位の位置にいるのかという事が過剰に気になっているのではないかと思われます。

 不動心とは、他に左右されない心ですが(他はどうでもいいとか、自分さえ良ければいいというものではなく)、その逆になると他が気になって仕方がないということになります。他を気にし過ぎると、落ち着きがなくなり、不安定になり、ストレスがたまります。他は自分でコントロールできないからです。

 現代の子供は大変なストレスを感じているという調査結果も出ていますが、キョロキョロ現象もその現れの一つかもしれません。

あるNHK番組を見て

  • 2005年04月26日(火) 00時00分
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 先日、NHKでカメルーンの日本人シスターを取材した番組を放映していました。

 内容(放送内容と若干異なっているかもしれませんが、ほぼ下記のようなものでした)

 カメルーンには「森の民」と呼ばれ、森の中で生活する部族がいます。彼らは一日のなかで狩などをして数時間働き、午後からはくつろいだ時間を過ごす。とても自由で、ゆっくりとした生活ぶりです。なにせ、自分の年齢を知っている人がいないのです。ということは、○○才になったら学校に入るといったような、○○ 才になったのだから○○をしなくてはならないといった制度も存在しないということです。番組内でも、「ゆとりと自由の暮らし」と説明していました。ところが、開発によって森の伐採が進み、獲物も獲れなくなってきました。そこで、日本人シスターが、「森の民」が森から出て生活できるように(文明社会になじめるように)農業や経済観念を教えたり、住民登録を手伝ったり、子供を教育したりしています。子供は部族から引き離され(親の同意は得ているが、その親たちは文明に対して劣等感を持っており、自分の子には偉くなって欲しいと願っている。しかし、子供はうまく獲物を取ったり料理をしたりする親を尊敬している)学校に入れられますが、森の民にとっては規則等に縛られた窮屈な生活が苦痛で、ほとんどの子供は脱走を試みるそうです。しかし、そういった子もシスターは何とか引き戻し頑張っています。

 って言うじゃない・・・・。

 でも・・・・あんた(シスター)の本来やることは、森の民が引き続き森で生きていけるように、彼らの誇りと森を守ることですから!! 残念。
(数年後に読んだ人は、このギター侍風フレーズが理解できないかも)

 どう見たって、森の民のほうが幸せそうなんですよね。

 我々は、先住民の精神に学ぶものが多いと思います。遅れていると思われてきた先住民の精神が、実は最先端だったのだと思います。先住民の精神についても今後触れたいと思います。

中越大震災

  • 2005年03月24日(木) 00時00分
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 10月23日の中越地震から5ヶ月が過ぎました。

 いろいろなことが押し寄せてきたからなのか、心に余裕がなかったのか、本日までホームページの更新が滞ってしまいましたが、復活したいと思います。

 我が家は、屋根瓦が吹っ飛んだり壁に亀裂が入ったりはしましたが、居住するには問題ありません。ただ、家の中の物は目茶苦茶になったので整理が大変でした。また、報道されている通り余震がひどく、しばらくは路上生活(車中生活)をしていました。

 本震の時、私は子供と嫁さんとで外出していたのですが、立っていられない程の強い揺れでした。家では、いつも子供を寝かせておく居間の真ん中に本棚が倒れてきていたので、運が良かったと思います。

 当時、生後5ヶ月だった我が子「多笑」は、10月27日の大きな余震以後に泣き声に少し変化が見られました。地震の影響なのか、たまたまなのか、はたまた親が慌てふためいた影響かは分かりません。

 中越地震後の行動や学んだことについては「せきたか通信№6」に記載しました、今後、ホームページに掲載しますので、そちらをご覧下さい。

 地震後の少し落ち着いたところで、趣味?である「自分自身を見つめること」を行いました。すると・・・、まず余震を怖がっている自分が見え、それは死への恐怖から起こっていることも分かりました。3年前の交通事故以来、自分は一度死んだものと思って暮らしてきましたが、いつの間にか元に戻っていたのです(死への恐怖を克服することは、命を粗末にする事ではありません)。身体を持って生きている以上、生命維持が至上命題になってしまうのは仕方がないのかもしれません。しかし、生命維持が人生の最大の目的だとすれば、全ての人間の人生は悲哀なものになってしまいます。なぜなら、永遠に生きることができない、つまり終わりのあるものを維持し続けることは無理であり、矛盾しているからです。では何が大切なのか? 私は「生き様・生き方」こそが一番大切なものだと再認識することができました。

 当時、ある方の傾きかけた家屋に調査に入らなければならなかった時、「ここで余震が起こったら、倒壊して下敷きになるかもしれない」と不安な思いがよぎり落ち着けなかったのですが、「本当に大切なのは生き様なんだよな」と思い起こしたら不思議と落ち着きを取り戻せました。その家屋には、どうしても入らなければならなかった訳ですが(それこそ生き様として)、その間の時間を不安な気持ちで過ごすのか、落ち着いて過ごすのかは気持ちの持ちようで変えることができたのです。

 切羽詰った時ほど心の状態が行動や言動に大きく影響するのかもしれません。

暴言3?  宅間死刑囚

  • 2004年10月05日(火) 00時00分
  • 分類:日記
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 またまた暴言です。

 先日、池田小児童殺傷事件の犯人である宅間死刑囚の死刑が執行されました。

 マスコミ報道では、「謝罪の言葉を述べていない」とか「まだ償いが終わっていない」といった論調が大半だったと思います。

 今回は宅間死刑囚の擁護論ではなくて、マスコミの報道姿勢や、この事件のとらえ方に対するコメントです。

 (そろそろいきますよ)さて、宅間死刑囚に「謝罪しろ」「償え」と言うのであれば、宅間死刑囚に謝罪し償った人はいるのでしょうか。

 私は子育て真っ最中ですが、我が子や他人の赤ちゃんを見ていると「この世に殺人鬼として生まれ出でた人は一人もいないはずだ。オギャーと生まれた時は、みんなが純真無垢だったんだ」と感じます。であるならば、宅間死刑囚は生後の家庭環境・学校教育・社会思想のなかで殺人鬼になっていったということでしょう(子供は自分で文化を創れません)。

 宅間死刑囚自身の責任は当然大きいのですが、同じように、宅間死刑囚を殺人鬼に育ててしまった家庭・学校・社会の責任も重大です。彼が救われるチャンスは何度かあった筈だと思います。

 人間の精神が歪んでしまうのは、極度な辛さ・悩み・悲しみ・怒り等のストレスです。そして、ストレスに対する強さや受け止め方は人によって違うのです。私にとって取るに足らないことでも、人によっては大事件ということもあります。宅間死刑囚にストレスを与え、取り除くことができなかった原因を考えなくては、この種の事件は後を絶たないでしょう。事実、ストレス社会の進行によって(日本人の7~80%が、重度・軽度を問わず精神の健全性を損なっているとのデータ有り)この種の事件(常識では理解できない事件)が頻発しています。

 学校の塀を強化するとか、開かれた学校にするといった対処療法だけでは亡くなった児童が浮かばれないと思います。

水害復旧ボランティアを体験して

  • 2004年08月15日(日) 00時00分
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 私は水害復旧作業に8日間従事しました。

 雨天や猛暑の中での泥の排出作業は非常に辛く、倒れて救急車で運ばれるボランティアもいました。

 不思議だったのは、爽快感を味わったことです。悲惨な現場での作業で、肉体的には辛いし、声もかけられない程の悲壮感が漂っている被災者を見て、爽快な気分になるなんて不謹慎だと思っていたのですが、よく考えてみると災害とは関係のない以下の理由で爽快感を味わったのだと思います。①知らない人とチームを組んでの作業なのですが、そもそも人のために働きたい人達の集まりなので、現場に優しさや気遣いがあふれている ②日常生活では他人の目や損得などが気になり、思いと行動を一致させることが難しいが、今回は思いと行動が完全に一致した ③人の役に立っているということを、直接感じることができた。

 予想もしなかった宝物を頂きました。

水害

  • 2004年07月19日(月) 00時00分
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 私は連日、水害復旧作業のボランティアに出かけています。長岡市、見附市、栃尾市、中之島町と現場視察もしましたが、中之島町が最も被害が大きいようです(新潟県も同じ認識のようです)。また、小泉首相も視察後に述べていたように、実際に見るとテレビよりも悲惨です。

 被災された方は、先の展開が全く読めないなかで、地道な復旧作業を行なっています。たいした力になれなくても、被災者が「多くの人に支援してもらっている」と感じてくれると気力を出してくれます。

 ただ、連休が終わるとボランティアの数が減ることが予測されています。そこで、都合のつく方は、私と一緒にボランティア活動を行なって頂きたいのです。半日でもかまいません。基本的には8:30に長岡市役所集合で16:30まで、今のところ25日までの予定です(移動のバスは長岡市が用意。その日の状況で、中之島町へ搬送されることもあります(長岡市もできる限り中之島町を支援する態勢です))。私もできる限り参加します。

 ニュースを見ていると「今日は1000人のボランティアが集まりました」等、ボランティアが順調に集まっているような報道がなされていますが、実際には不足しています(自治体もそう言っています)。長岡市と中之島町には「マスコミに協力してもらって、報道の最後にボランティアが不足している旨を伝えてもらったらどうか」と言っておきました。「足りなくて大変だ」と右往左往していても、その情報を多くの人に伝えなくては問題は解決しないと思います。情報伝達は大切です。

 参加される方は、メールにて私に連絡ください(市が事前に人数を知りたがっています)。

 被災者で、ボランティアに手伝ってもらった人は、「他の地域で災害があったときには駆けつけたい」と言ってくれる人が多いです。今回も、「以前に助けてもらったから来た」という方もいらっしゃいます。

 世の中には負の連鎖が広がっていますが、このような正の連鎖も広げていきたいものです。

追悼  ~土田市議 亡くなる~

  • 2004年07月12日(月) 00時00分
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 本日夕刻、長岡の土田市議が交通事故死されました。

 純朴・実直、良い意味で田舎臭い方だったと思います。2年前には私も事故に遭ったもので(どういう訳か助かりましたが)、今回の件でも感じるところがあります。2年前の事故の時も「人間いつ死ぬか分からないのだから、明日死んでも納得できるように今日を生きよう」と心に言い聞かせましたが、今回、改めてその気持ちを思い起こさせて頂きました。

 5年間お付き合いさせて頂いたので、思い出は沢山あります。

 今までお付き合い頂き、有難うございました。

 ご冥福を供養いたします。

子供が生まれました

  • 2004年06月03日(木) 00時00分
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 5月24日に長女が誕生しました。名前は「多笑(たえ)」です。子供を見ていたときに浮かんできた名前をそのまま付けたのですが、結果的に嫁さんの多紀子から一字とって、母のようになって欲しい(母がどんな人なのかの説明は省きますが(笑))との想いと、笑いの多い人になるようにとの想いを重ねることとなりました。

 改めて命の尊さを感じると共に、自分もこんな風にして世の中に出て来たのかと思うと、感慨もひとしおです。

 自宅出産も模索したのですが、今の時代なかなか難しいようです(子供を病院で出産するのが当たり前の世の中ですが、人類の歴史の中では本当にごく最近の事なんですよね)。

 ということで、なるべく自然に近い出産のできる病院を見つけました。そこは、陣痛促進剤を打たず、出産直後から母子同室です。なおかつ、夫が出産に立ち会った上で、なんと、へその緒を切る役割を担うのです。男が、こんな形で出産にかかわれるなんて素敵なことだと思い、夫婦共々楽しみにしていました。

 陣痛が始まったと連絡があって、すぐに嫁さんの実家(静岡県)へ向かいました。移動途中に感動の涙が出てきたのですが、携帯電話に連絡が入り「もう生まれた」とのこと。安産を祈りつつの移動だったはずなのに、その言葉を聞いた瞬間に少しガックリきてしまいました。なんと勝手なことでしょう(笑)。

 ありがたい事に、大勢の友人が「おばさん」「おじさん」を宣言してくれています。勿論、血のつながりはないのですが、多くの人たちに囲まれて育っていくのが楽しみです。

年度末

  • 2004年04月05日(月) 00時00分
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 年度末・年度始は何かと忙しいのです。

 3月議会が終わったら、政治団体の収支報告(3月末日まで)、市政調査費の収支報告(4月10日まで)を作成しなくてはなりません。

 私は市政調査費を、主に研究会・講演会・勉強会への参加に使わせて頂いています。これまで、市政調査費の報告は手書きだったのですが、今回から一部はワープロで作成しましたので、これら研究会等の内容を後日ホームページに載せることにします。

テレビショッピングを見て

  • 2004年03月08日(月) 00時00分
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 テレビショッピングが花盛りです。先日も、ブルブルと振動するダイエットマシーンを売っていました。その機械の上に乗っているだけで全身運動になり、痩せるとの事。少し前には、寝たままで足を上に置くと痩せるといった機械(金魚運動マシーン?)も流行りましたね。飲むだけで脂肪を減らせるダイエット食品もよく宣伝しています(「だから、好きなだけ食べられる」といったうたい文句だったが、効果がないことが判明してから宣伝が一切なくなった)。

 いろんなデータがあるのですが、世界63億人のうち8~12億人が飢餓や栄養失調です。片や不思議なことに、ほぼ同数が肥満や栄養過多です。NHKで「アメリカのウエストバージニア州では、肥満による生活習慣病が急増し、自らの胃を切り取る手術を行う人が後を絶たない」と報道していました。

 食べられないことが原因で、毎日3~5万人が亡くなっている事実。

 肥満解消のために、なるべく楽して痩せようという人がいる事実。

 何か変ですよね。

新婚旅行

  • 2003年08月26日(火) 00時00分
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 「結婚式や披露宴はしたくないが、新婚旅行は行きたい」との嫁さんの希望をかなえる為、行事の少ないお盆に決行となりました。

 私は砂漠横断、嫁さんは北欧・オーロラを希望したのですが、折り合いがつかず、結局モルディブに行ってきました(私に最も似合わない? 海のきれいな南の島です)。

 モルディブ人はイスラム教を信仰していますので、お酒を飲みません。でも、首都のマーレ(人口約7万人)では夜遅くまで外に出ています。とはいっても、騒いでいる人は少なく、友人と話したり、ボーっと座っていたりで、のんびりとした時間が流れています。同じ人間なのに、日本とはずいぶん雰囲気が違っています。何かに追われて余裕がないとか、精一杯努力しているといった様子ではありません。日本は経済的に世界で2番目に豊かな国ですが、モルディブの人たちのほうが幸せに見えてしまいます。

 モルディブには欧米や日本から沢山の人がリゾートにやってきます。皆、自分の国では一生懸命に働き、心のオアシスを求めてこの国にやって来るのではないかと思います。だとすると、自身の国は安らぎ・くつろぎのない国であると言えるかもしれません。あくせく働いて得たお金を使ってリゾートに来る私達よりも、おそらく海外旅行に行ったことのないであろうモルディブ人のほうがゆったりと暮らしている光景は滑稽でした。
 でも、このモルディブのゆったりした光景は、本来はどの国でも見られたのではないかと思います。

 さて、モルディブでも世界的な異常気象を感じさせられました。
近年、雨季と乾季がはっきりしないようです。また、数年前に海水温の異常上昇で珊瑚がほぼ全滅(白化現象といって、色が抜け落ち死滅する)してしまい、海の中は珊瑚の墓場のようでした。

 とはいっても、自然はまだ力強く、適当に泳いでいるだけで海亀・エイ・巨大ウツボ・ナポレオンフィッシュ・鮫などと遭遇しました。勿論、熱帯魚は浜辺からでも無数に見えます。

 私もお金を払い、環境破壊(飛行機に乗ったり、リゾートでの不自然な食事など)をしてリフレッシュする一人となってしまいました。

 おことわり・・・

 この文章を読む限り、楽しい旅行でなかったような印象が残りますが、そうではありません(笑)。旅行中にも前述のように考えてしまう私は不幸な性格かもしれません(再笑)。

チョット間があきましたが 選挙を終えて

  • 2003年07月07日(月) 00時00分
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 選挙終了と共に残務整理が始まり、結婚にまつわる様々な所用(アッ、実は結婚したのです)をこなしている間に6月議会が迫り、7月4日に議会が終了したところです。

 慌しい2ヶ月でした。

 この度の市議会議員選挙に際し、皆様から様々な形で御支援頂きました事に感謝申し上げます。

 2243票で19位という結果で、低投票率・同タイプの候補者多数・4年間貫いた信念(波風が立ちますし、批判も受けます)という条件を考えますと、価値ある結果であると感じています。

 今回の選挙は、組織選挙の候補者が上位を占める結果となりました。しばらくの期間は、草の根選挙と組織選挙の間で揺り戻しが起こると考えています。

 私は、会派という議員グループに所属しないで活動してきたので(4年間の無会派は長岡初)、変わり者と評されることも多かったのですが、3人の新人議員が無会派を選択されましたので、この評価も少しは薄まるかもしれません(これ以外にも変わっていることが多いので無理でしょう(笑))。

 今後も精一杯活動いたしますので、御指導・御支援をお願い致します。

 選挙で時間が無かったことと、私と嫁さんの希望で、結婚式や披露宴はしませんでした。

 「どうしても挙式したい」という人は私なんかを選ぶことはないでしょうから(見た目や形式にあまりこだわりませんから)、お互いにちょうどいい相手なのかもしれません。おっと、私なんかを選んでくれた嫁さんに感謝しております。

 今後は、一人では味わえない"学び"と"訓練"の場を持つことができるでしょう(笑)。

パソコン不調  ~ 便利と不便は表裏一体 ~

  • 2003年03月21日(金) 00時00分
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 しばらくの間、パソコンが不調だったんです。先日やっと復旧したのですが、使えない期間は不便で不便でしかたありませんでした。便利ということは、逆にそれが崩れた時には、より不便になるのではないかと感じます(車・電気・原発・FAX・石油ショック時のトイレットペーパー(笑)等々)。適度な便利さと適度な不便さが必要なのかもしれません。

 人類の歴史は、便利さを追求してきた歴史とも言えるのではないでしょうか。その行き着いた先の一つがイラクに向けて発射されたミサイル。ボタン一つで人間を殺戮することができ、それを好む人にとっては非常に便利なものです。更に、指揮官は遥か彼方から指令を下すこともできるようになっていて、これまた便利。

 大量破壊兵器が問題となっていますが、戦国時代に比べると現代のどんな些細な武器でも大量破壊兵器になってしまうのではないでしょうか。

 最近、スローフード(ファーストフードの対極)やスローライフといった言葉を聞きますが、これらは今までの便利一辺倒の考え方に一石を投じています。

 また、講演会で次のような話をさせて頂くことがあります。「一昔前には洗濯機や炊飯器はなかった。お風呂も薪で沸かし、掃除もホウキを使っていた。30分かかっていた洗濯がボタン一つで、1時間かかっていた風呂沸かしもボタン一つで終わるようになった。我々は昔の人たちに比べ、凄~く”ゆとり”ができている筈だ。ところで、皆さんは”ゆとり”を感じますか?」

 京都大学の高月教授は「 ”お金(物)持ち” と ”時間持ち” はどちらが豊か?」と問いかけています(あえて極端におっしゃっていますが)。我々は、この辺をよく考える必要があるのかもしれません。

 さて、私にとっての便利か不便かよく分からないモノの一つに携帯電話があります。かける時には便利さを感じますが、何時でも何処でもつかまってしまう(連絡がつく)不便さも感じます。一昔前の家庭や職場では、私の外出中に電話がきても「戻ったら伝えておきます」で済みましたので、心置きなく所要を済ませることができました。かといって携帯電話の電源を切っていれば、「何やってたんだ」ってことになりますし。まっ、私のわがままなんですけど。

 最後に、今回のパソコン不調事件でも、ちゃんと嬉しい事があったので報告いたします。

 なんと、ほとんどお会いしたことのない数人の方から「最近、ホームページの更新がないですね」との連絡を頂きました。アクセス数か伸びないと恥ずかしいので(実は恥ずかしがり屋です)カウンターは付けていませんが、見ていてくださる方を実感できたことは大きな収穫でした。連絡頂いた皆さん、ありがとうございました。

またアメリカです  ~ 負の連鎖から正の連鎖へ ~

  • 2003年03月21日(金) 00時00分
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 イラクに対するアメリカの攻撃が開始されました。この攻撃に対する賛否が渦巻いておりますが、いずれにせよ戦争という解決手段が選択されたのは悲しい事であり、どこか遠い国の出来事として片付けられない心境です。考えさせられている人も多いのではないでしょうか。

 もし、「みんなが笑顔で暮らすまち」をこの長岡で実現できれば、その波紋は日本、そして世界へと広がっていくのではないでしょうか。

 笑顔で暮らす人(幸せな人)は他人を攻撃しませんし、攻撃する必要もありません(既に幸せなのだから)。笑顔で暮らす人は怒らず、愚痴りません。笑顔で暮らす人は他人が困っていたら助けます。笑顔で暮らす人は他人を笑顔に変えることができます。だから、笑顔の人が増えればいいのです。そして、その源泉になるのは私であり貴方です。

あるコミュニティー誌への投稿(テーマ:男と女)

 「男女」のように、反語が対になっているものは、善悪・正誤・賛否・老若・明暗・上下・表裏・貧富・真偽・生死など数多い。これらに共通しているのは、「片方を理解しようとすれば反対も理解しなくてはならない(仮に、これをAパターンとする)」、若しくは「片方を完璧に理解すると反対も理解できる(これをBパターンとする)」といった事ではないかと思う。例えば「真偽」においてのAパターンは、真と偽を両方見るから真偽の違いが分かるって事だし、Bパターンは、真を完璧に理解できるから、それ以外は偽だと分かるって事のような気がする。

 ちょっと別の角度からみてみよう。 Aパターン:すごく貧しい家庭に生まれたけれども、経済的に成功した人。若しくは裕福な家庭に生まれたけど財産を食い潰して苦労している人。こんな人で、(貧富は関係なく)結構素敵に生きている人がいる。そんな人は、両極を経験したからこそ、貧でも富でもない人生の本質(真実)を知ってしまった人なのではないか。 片やBパターン:何十年も同じ仕事しかしない職人さんで、人生を卓見している人がいる。この方は、一つの職を極める事によって人生の本質を知ってしまったのではないか。

 さて、男女間のトラブルを耳にする機会も多いが、その多くは「相手の気持ちを理解できない」ことが原因なのではないか(これは男女に限らず同性でも言えることだが)。男女が互いを理解するとしたら、Aパターン(男が女を経験する。又はその逆)は有り得ないので、必然的にBパターンになってしまう。つまり、女は女を極め、男は男を極めるということだ。確かに、もの凄~く女らしい人は男を良く分かっているような気がするし、もの凄~く男らしい人は女を良く分かっているような気がする(女らしさ・男らしさには議論があると思うが)。でもチョット待て。もう一つCパターンがあるではないか。

 Cパターンとは、いきなり本質を理解する方法である。このパターンは、どんな事にも適用され、最も効率の良い方法ではないのだろうか。「男女」に当てはめれば、異性を理解するとか男を極めるということではなく、ズバリ人間そのものを理解してしまうのである。人間そのものが理解できれば、男女だろうが世代だろうが国籍だろうが全く関係なし(但し、理解できるという事と、自分がそうする事は別物)。

 さてさて、では人間そのものを理解しようと考えると、自分に一番近く・研究しやすい対象は、実は自分自身である。人は皆、自分の事はよく分かるって言う。「私はこんな性格です」と言う。「じゃあ、なんでそんな性格になったの? 生まれた時は純真無垢だったよね」と尋ねると、「???」。自分を知る事は、自分のルーツを知る事。そして、本当に自分(人間)を知っているのであれば、その人に人間関係のトラブルは起きづらくなる。自分のルーツを知ると、我が子のように自分が愛しくなる。自分を愛した時、他人を愛すこともできる。自分という人間を認められた時、他人も認められる。自分を信じられた時、他人も信じられる。

 さあ、自分自身(人間)を研究しよう!

レジにて

 皆さん経験済みだと思いますが。

 スーパーなどでの買い物の際、レジ待ちの列に並んでいると、隣のレジがオープンして自分より後ろの人が先にレジに入るという経験。車の割り込みなんかも同じ状況ではないでしょうか。

 私は心が狭いため、些細な事なのに嫌~な気分になってしまいます。そんなに急いでいる訳ではないのに、何故か時間や順番にとらわれてしまいます。そして、嫌~な気分になった自分自身を嫌になってしまうという「嫌なスパイラル」に入り込みます。
 
 「本質的には、この世に良い・悪はない」という言葉を聞くことがありますが、私は十分に理解し実践する事が出来ていません。そこで、今のところの妥協点として、「良い・悪いはあるが、そう判断することと感情(怒りなど)を直結させるのは自分自身の問題である」と考えるようにしました。通常、悪い事に出会ったら(悪いと判断したら)自動的に怒りの感情が湧いてきますので、あたかもセットになっているように感じてしまいます。そして、「悪い事に対しては怒って当然」と思い込んでしまいます。しかし、本当にそうでしょうか? よーく考えてみると、悪いという判断と怒りの感情は別物だと気付きました。自分自身の物事の判断基準(ものさし)を持つのはいいのですが、強く持ち過ぎると感情をコントロールできなくなるようです。「怒る」と「叱る」の違いでしょうか。「正義と正義感の違い」と表現した方もいらっしゃいます。

 目の前の出来事を良い・悪いと判断しながらも、怒りの感情に流されない生き方を目指しています。

山梨で講演

 今月17日に山梨県甲府市で環境問題の講演をしました。16日は市政勉強会で財政・社会問題の発表をしましたので、初の二日連続講演となりました。それぞれ違うテーマでの講演だったので、資料の整理に時間がかかりましたが、こんな事でもないと整理しないので助かりました。

 さて、山梨の会は一人の親友の主催でしたが、17人も集まってくださいました。ちょっと声を掛けただけらしいのですが、凄いものです(それも、全員が何の話しかを知らずに来ていた)。彼の日頃の生き様の結果でしょう。想いって、伝わる時には伝わるものなんですね。

 さて、今回のように一声掛けて沢山の人が集まるなんて事は、そう簡単には体験できないのではないでしょうか。皆さんは「いざ」という時にどれだけの人が集まってくれそうですか? 実は私、以前にその事を考えた時、自分が非常に寂しい状況だということに気付き愕然としました。そして、その寂しい状況を作り出したのは、当然ながら自分自身であったのです。自分自身の過去の選択(生き方)の結果が現れていたのです。

 以来、少しだけ心を入れ替えて現在に至っていますが、それでも人間関係やコミュニケーションの質が上がったようで、とても素敵な環境(人間関係)に居ます。周囲の人もそう思っているのかは不明ですが・・・(笑)。少しの変化が大きな違いになったのかもしれません。

暴言Ⅱ?   北朝鮮との外交について

 昨年9・11のテロ直後に書いた暴言に続く第2弾です。

 テロ以降、怒りが怒りを呼び、更に新たな怒りが発生する。疑念が疑念を呼び、更に新たな疑念が発生する、という状況になっていますね。

 昨年の暴言を書いた時には、私のような考えがマスメディアから流れてくる事はありませんでしたが、時間の経過と共に、この考えを持つ人が取り上げられるようになってきました。さて、今回はどうか? 我ながら、前回以上の暴言であろうと思われます。

 前回のアルカイダ同様、北朝鮮の行った事は許されない事でありますし、長年にわたる被害者及びその家族の精神的苦痛を思うと、私の心も痛んでいるという前提でのコメントです。

 先日、某ニュース番組で、現在帰国中の拉致被害者の方々を北朝鮮に帰すべきかどうかのアンケート調査の結果を放送していました。それによると、「帰すべきでない」が80%、「帰すべき」が10%で、圧倒的多数の人たちが現在の状態を良しと判断しているようです。

 ところが私はチョット違って(だから暴言なのですが)、次の二つの理由から帰すべきと考えます。①二組の夫婦は、北朝鮮に残した子供には「10日間くらい旅行に出る」旨の説明しかしていないと聞いています。ですから、子供が気になるといった発言もされていますよね。親心を考えると、本当は気になって仕方がないのではないかと推察されます。また、残された子供がしっかりした説明を受けていないのであれば、安否を気遣い不安な日々を過ごしているに違いありません。だとすれば、日本人拉致被害者とその家族が味わったものと同じ悲しみを子供に与えている日本は、北朝鮮を批判する資格があるのだろうか? ②拉致した事は罪深いし、また北朝鮮が日本との国交正常化の必要に迫られているとはいえ、24年間事実無根と言ってきた拉致と被害者の帰国を認めたことは評価してあげなくてはならないと思います。北朝鮮がやっとここまで軟化してきたのに(渋々の筈です)、日本が10月28日に帰すという約束を守らない事によって、再び北朝鮮が硬化する恐れがあると考えます。その場合、死亡したと伝えられた方々の調査にも影響が出てくるものと考えます。(カチンと来た方、ゴメンなさい)

 更に暴言度をアップさせましょう。

 そもそも何故、解決に24年もかかったのでしょうか。それは、日本が「北朝鮮は許さない、悪だ」と言い続けてきたからなのではないかと思います。(この辺で我慢の限界を感じた方、ゴメンなさい) 子供の頃に経験した人も多いと思いますが、何かの失敗をして、親や教師から「やったのはお前か」と問われても「ハイ」と答えたら怒られるのが明らかな場合、「私じゃない」と言ってしまう心理状態がありますよね。もし、北朝鮮に対して「拉致は悪い事であるが、罪を憎んで人(国)を憎まずだ。どんな事実であろうとも責任を追及しないので、正直に全てを明らかにして欲しい」というスタンスで臨んでいたら、拉致問題はもっと早く解決していたかもしれません。

 もし、北朝鮮が一部で言われているように「ならずもの国家」であるなら、例えたら、わがままな子供みたいなものかもしれません。もし日本が大人の国家であるなら、子供をコントロールし、教育する役割があるのではないかと考えます。その場合、怒るのではなくて、叱る事が必要なのではないでしょうか。「怒る」は感情任せの行為ですが、「叱る」は愛情や許しが入った行為です。

 許すって事は個人でも国家でも大変な事ですね。でも、許した方がうまくいったり、楽になることも多いのではないでしょうか。

 この問題を語り尽くすには、「大人とは・子供とは」「善・悪とは」「怒りとは」などを議論しなくてはなりませんが、今回はご容赦の程を。

 外交は拉致問題だけではないし、私自身が断片的な情報しか持ちえていない中でのコメントであることをご了承ください。

事故報告Ⅱ  -おまけー

 病院に搬送され、救急処置の後、ベッドの上に4時間ほど寝ていると、打撲の痛みと、姿勢を変えられない(寝返りが打てない)ことによる痛みが腰から背中に襲ってきて辛くなり、看護婦さんに「ベッドの角度を変えて上半身を起こせませんか」とか「せめて腰の下に枕でもあててもらえませんか」とお願いしてみたのですが、とにかく朝の精密検査までは安静にしなくてはならないとのことで、耐えるしかありませんでした。これが非常に苦しい。めったに弱音を吐かない私ですが、呼吸に合わせて呻き声が出てしまいました。感じる本人によるのでしょうが、「生き地獄」とはこんな感覚なのかもしれません。

 しかし、この時思ったのです。「戦争の時の野戦病院には、足がちぎれる等、私よりもっと重傷な人が担ぎ込まれ、現代医学や日本の医療よりも劣った状況で、満足な痛み止めもなく喘ぎ苦しんでいる人がいる(いた)のだろうな」。原爆投下後の病院で、不衛生な為に体から「うじ虫」が湧いた患者さんの写真を見たことがありますが、「この人達はさぞ辛かったんだろうな」と。
その人達に比べれば私の苦しみなんて微々たるものでしょうが、それでもやっぱり辛かったです。

 いろいろとお世話してくれる看護婦さん達は、私に対し二通りの反応を示してくれました。一つは「関さん、高速道路の事故でこの程度の怪我で済むなんて運が良かったね~」という反応。もう一つは「関さん、人を助けに行って、あんただけが怪我するなんて運が悪いね~」です。私の症状や、事故に遭った状況は同じ (事実があるだけ)であるのに、看護婦さんによって「良かった」と感じる方と「悪かった」感じる方がいたのです。物事には全て表裏(二面性)があるものだと思います。そのどちらを見るのかによって、人生もずいぶん変わってくるのかもしれません。

 人間は、自分の死を認識できないと思います。「死にそうだ」ということは分かっても、今死んだということは分かりません。死ぬと同時に意識もなくなるからです。ですから、死にそうな恐怖はあるかもしれませんが、死の恐怖は存在しないのではないかと感じました。