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森友 文書改ざん問題

森友 文書改ざん問題

これまで安倍政権についてイロイロと書いてきましたが、予想通り内部に相当な歪みが生じていることが分かってきました。不公正の問題は、行政だけに限らず日本全体、世界全体に巣食っている問題ですが、これまで述べてきたとおり、安倍総理や安倍政権の体質や横暴な物事の進め方が、近年の行政や政治の歪みを助長してきたと私は考えます。そして、今回の決裁文書改ざん事件は、それが白日の下にさらされただけなのです。

「財務省が書き換えを認めた」とのニュースを聞き、私は思わず「これで政権は吹き飛ぶな」と妻に語りました。戦時中の大本営発表のようなものですから、重大な問題なのです。
1年前に森友問題が表面化した時、政権を揺るがしかねなかったからこそ総理は「関与していたら議員辞職する」と発言したわけで、その際に何の確認もせずに発言することはないはずです。また、発言後これほど重大な問題を「後は財務省に任せっきり」というのも非常に考えづらいし、任せっぱなしだとしたら、重大懸案事項ですから無責任と言わざるを得ません。いずれにしても、総理や官邸の責任は逃れられないと考えます。
さらに言えば、これだけの懸案事項ですから官邸が関与していた可能性が大きいと思います。

さて、この問題を巡るマスコミ報道ですが、事の重大性から考えると全体的にやや腰が引けているような印象です(例えば、安倍総理の責任にはほとんど言及されていない)。安倍政権になってマスコミへの圧力も強くなっていますから(国は以前から、ある程度の世論誘導を行っていますが)その影響なのか、あまりに重大事件過ぎて立ちすくんでいるのかわかりませんが、しっかりとした報道姿勢を望みます(もちろん冷静さが大切で、あおるようなことがあってはいけません)。

私自身のことを棚に上げて言えば、この問題も含めて最近の偽装の頻発をはじめとした数々の問題から、日本人の人としての劣化を感じます。何か問題が起こると、組織や仕事のやり方、チェック方法を変えて再発防止としますが、それでは限界があります。立派なというか真っ当な人間はほとんと悪事を働きませんから、そういった人間を育てることが社会にとって最も大切です。

自燈明

自燈明

仕事柄、各種学校の卒業式に招いて頂くことがあります。
先日も、ある専門学校の卒業式で祝辞を述べさせていただきました。

経験上、冬季オリンピックが開催された年の卒業式では、オリンピックで活躍した選手のエピソードなどが餞の言葉として語られることが多いように感じます。

ピョンチャン五輪での日本人選手のコメントは、それまでの努力のプロセス(過程)や支援者に関するものが以前より増えたと感じています(私的には達観したような爽やかなコメントが増えて嬉しい)。増えた理由としては、①マスコミ対応の講習を受けている ②メダリストになるために精神面のトレーニングを行ったことで、ある境地に至った ③競技に熱心に取り組むことが自分自身を見つめることにつながった などがあるのではないかと考えています。
プロセスの重要性は以前に述べましたが、それを体現する選手が増えたのは嬉しいことです。例えばスピードスケートの小平選手。金メダルへのプロセスとしては最終段階での出来事ですが、彼女が滑り終わってオリンピックレコードで暫定1位になった場面。沸き立っている観客に対し静まるように促しました。金メダル獲得を最上位目的にしていたのであれば、観客をあおって会場を騒がしくすることなどで、次に滑るライバルの集中力を削ぐという手段もとれたのではないかと思います。

先日の祝辞でも、オリンピックの話から今後の社会人生活でのプロセスの重要性を述べました。しかし、プロセスが大切といっても、山の登り方がいくつもあるように、どのプロセスを選べば良いのかという基準が分からないことも多いと思います。
そこで、お釈迦様が残された「自燈明」の教えです。「人間は明日のことが分からず、人生は暗闇の中を手探りで生きているようなものだ。どこかに光がないかと求めたり、誰か光をあててくれないかと願うのではなく、自らの良心を灯として歩みなさい」という意味だと私は解釈しています。この良心で物事を選択することが大切なのだろうと思います。しかししかし、心を見つめてみると、怠け心、嫉妬心、猜疑心、恐怖心、欲…などがごちゃ混ぜになって見え、どれが良心なのかが分からないことも多いと思います。そんな時でも焦らず慌てず、じっくりと見続けていくと、そのうちに心の中が仕分けされ整理されてきて、なんとなく良心を感じることができるようになるはずです。良心が明確になればなるほど、プロセスを重視するようになると思います。プロセス重視で生きると、結果に左右されること(期待しない結果の場合は落ち込んだり不機嫌になる。期待通りの結果の場合は浮かれたり傲慢になる等)が少なくなるため、爽やかで晴れやかで安定した心理状態を保ちやすくなるので、結果として満足度の高い人生を送ることができるのだと思います。

このような話をしたのですが、20代の私だったら理解できていないでしょう(笑)。
以前に私の中学時代の校長先生のお話(この時も冬季オリンピックの話でしたが私は理解できませんでした)について書きましたが、同じように人生のある時点で思い起してもらえると有難いです。

本年も宜しくお願い致します

本年も宜しくお願い致します

新年ですが、去年ネタです。
年末に車を運転中、ラジオ(NHK)で放送されていたこと。
話の途中から聴いたことと、運転中であったため正確に記述できないことをお断りしておきます。

日本の子供の自己肯定感が低いとの調査結果に対し、評論家が「親が高い偏差値や学力を子に求めすぎ。親は『愛と正義を持っていれば人生を渡っていける』ことを教えるべき」と語っていました。

同意‼
しかし、そのような教えを受けた親はどの程度いるのだろうか?

異様な総選挙

異様な総選挙

衆議院が解散しました。
新聞では「大義なき解散」「新党結成」「民進党が解党」などの見出しが躍っています(様々なメディアで様々に報道されています)。希望の党の結成や民進党の合流に「野合」「選挙目当て」などとの批判の声が上がっています。その批判はもっともですが、そのような状況になった大きな理由は「今なら選挙に勝てるから解散」を行ったからではないのかと思います。与党が強引かつ選挙に勝つために解散したので、野党の中でも強引かつ選挙に勝つために行動する党がでてきたのではないでしょうか。

とにもかくにも、健全な民主政治の基盤は健全な有権者です。
投票率が低くなれば、「ごく一部の人達の政治」「ごく一部の人達のための政治」になりがちだと思います。
とにかく投票に行きましょう。

今村前復興大臣と東京電力

今村前復興大臣と東京電力

今村前復興大臣は失言の責任をとって辞任しましたが、実質的には安倍総理から更迭されたと報道されています。退場処分ですよね。
東京電力は隠ぺいや改ざんといった数々の不祥事を重ねていますが、お灸をすえられることはあっても退場処分(原発からの退場処分も含めて)にはなりません。電力安定供給などの特別な事情があるにせよ、差がありすぎるように感じます。

森友学園と東京電力

森友学園と東京電力

たびたび更新が滞りまして、申し訳ありません。
森友学園騒動が収まりませんね。
学園側は小学校の設置認可申請を「不認可の可能性が高い」として自ら取り下げたそうですが、取り下げなくても認可が下りなかったと思われます。
翻って東京電力。この組織も多年にわたって不祥事が連続していますが、「原発運転の資格なし」との判断は下っていませんし、下される見込みもないようです。電力の安定供給は重要ですが、原発再稼働ありきの姿勢はいけません。

科学が追い付いてきた

科学が追い付いてきた

これまた、少し古いネタで申し訳ありません。
私は瞑想が趣味であると以前に述べたことがあると思いますが、以前にテレビをつけたらNHKで瞑想の一種と思われる「マインドフルネス」について放映していたので、最後まで見てしまいました。

ストレスは心身に影響を及ぼすと言われてきましたが、そのメカニズムが分かると同時に対処方法もわかってきたようで、有効な対処方法の一つが「マインドフルネス」らしいのです。番組の途中から見たので私なりの解釈になりますが、キーワードは「今」ではないかと思います。人間は無意識に「過去を悔み・過去に浸り」過去にとらわれてしまいがちです。また同じく「未来を憂い・未来に期待する」未来にもとらわれてしまいがちで、今を実感する時間は驚くほど少なくなっていると思います。逆に言うと、ストレスは過去と未来への想いから生じているわけで、一番大切なのは「今、この瞬間」の連続でしょう。
そう考えると、幼い子供は今を生きているので、大人には命が輝いているように見えるのかもしれません。

また、番組前半では「コーピング」を紹介したそうです。
ストレス対策だそうですが、客観視や自己理解の要素が入っているようなので、それ以上の効果も期待できるのではないでしょうか。

コーピングもマインドフルネスも瞑想も、誰にでも簡単に(それもタダで(笑))できますので、興味のある方は番組HPをご覧頂くと良いと思います。
(瞑想については様々な瞑想法があるようです)

この件に関しては、人類が蓄積してきた知恵に科学が追いついてきた感じですね。

小学校の運動会で感じたこと

小学校の運動会で感じたこと

随分時間が経過しましたが、子どもの運動会に行ってきました。
地域在住ということで、我が子が入学する前から毎年お招き頂いているので、20回近く見させてもらっています。

この学校では、赤組と白組に分かれて優勝争いをする他に、応援の出来栄えを競う応援賞も設けられています。以前は、教育的配慮ということで、優勝しなかったチームに応援賞を授けるという傾向があったようです。しかし、ある時にある校長先生が「応援賞は優勝できなかった組がもらえる」と言った児童の言葉を聞き、やる気の低下を危惧されて改革し、以降は優勝と応援賞をダブルで獲得する年もあり、今年もそうなったのでした。
運動会は子どもにとっては一大行事です。今回も前回も、優勝と応援賞をダブルで逃した組には涙を流す児童もおり、「かわいそうだね」「非情すぎるのかもしれない」といった声が上がる一方、「人生の一ページだ」「つらいだろうが良い経験」と温かく見守る方々もおられました。

子どもに対する愛情に由来する「子どもにつらい経験はさせたくない」とか「この歳でこの経験はまだ早い」との思いには共感できますが、以前のように優勝しなかった組に応援賞を授けることで、子どもにショックを与えないほうが良いとは思えません。
人生は、いつ何時・何が起こるか分かりません。どう考えても子どもが自分で対処できなかったり、乗り越えられなかったりすることはできるだけ避けるように導くことは大前提ですが、何か起こった時に自分で対処したり乗り越えることを大人がサポートすることはとても大切だと思うのです。

ある教員の方が「今回の件を良い経験に転化できるように、子どもたちに向き合っていきます」とおっしゃっていましたが、素晴らしい目線だと思います。

親や教員がいつまでも子供について回って守ることは不可能です。何かを起こさないのではなく、何かあっても自分で対処し・乗り越えることができるように(自立ということですが)少しずつ導いていくことが必要でしょう。
さりとて、子の自立度や、どの程度の体験がその子にどの程度の影響を与えるのかの見極めはなかなか難しいと思います。やはり、日々地道に子どもと向き合っていくしかないのでしょう。

北海道の男児置き去り事件

北海道の男児置き去り事件

北海道の山中で置き去りにされ行方不明となった7歳男児、見つかって一安心です。しかし、それは次なる心配を生み出しました。
今回の件が男児の心にどれ程の傷を与えたのかということです。
(ここからは、男児の性格や親子関係が分からないので一般論となります)
一度置き去りにした時は男児が車に追いついたので、再度置き去りにしたとのこと。男児は泣きじゃくり混乱して車が立ち去った方向とは逆方向に歩いて行ってしまったそうです。2度にわたって置き去りにされたことは相当なショックを感じているのではないかと思われます。
子にとって、親は神様のような存在です。親は見返りを要求しない愛情に従って、自分が生きていくうえで必要な自己肯定感や衣食住を与え、所作や知恵を教えて保護してくれるからです。
神様から一時的とはいえ徹底的に見放された心の傷は深く、今後の彼の生き方に大きな影響を与えるのではないかと思います。

しかし、親といっても完璧な親はいませんから、子どもとの関係に問題を抱えることは当たり前です。親子のトラブルによる心の傷は、それまでの信頼関係や周囲の人との人間関係の中で何とか回復することが多いと思います。
私の子ども時代にはよくある話だったと思いますが、私も家を叩き出されたことが数回あります(私は第一子だったのですが、2歳下と4歳下に妹と弟がいて、親の愛情や注目を一身に受けられなくなったストレスにより、いじめや我がままな行動をとっていたことが家を追い出された原因です)。しかし、今日まで何とか生きてこられましたから、ある程度は大丈夫だと思います(当然、個人差はありますが)。

親は親の考える方法で子を正そうとしているはずなので責めることはできないのですが、感情的で反射的な反応になっていることも多いのではないでしょうか。親も「感情的に怒る」のではなく「情熱的に叱る」努力が必要で、その努力を通じて人間的な成熟が進むと思います。最近では「アンガーコントロール」も注目されるようになってきましたね。
さらに言うと、今回の事件のように恐怖を与えることによって人(子)をコントロールすることは避けるべきだと思います。親子関係に限らず全ての人間関係において、恐怖心をあおって人をコントロールすることは不健全です。

男児の今後を心配しましたが、世の中には更に過酷な環境で生きている人々も
います。事件や災害や戦争などで近親者を失った人、見放された人、虐待を受けた人、等々。様々な人が様々な心の傷を背負って生きています。しかし、大きな希望は、自らの心の傷は、自ら癒すことができるということです。もちろん、他人との関わりで傷が癒されることもありますし、それが必要な状況もありますが、究極は他人に頼らなくとも自分自身に向き合うことで癒すことができるのです(子どもは難しいと思います)。セルフカウンセリングといった分野になりますが、これほど心強いものはないと思います。

画期的かもしれない方法

画期的かもしれない方法

本日は議会の建設委員会が開かれたので、1月下旬の豪雪による渋滞について、今後の対策などを議論してきました。

1月24日から26日にかけてが最も大変な状況でした。
私もこの間に一度、車がスタック(立往生、タイヤが空転して動けない)してしまいました。また、4台のスタック車両の救出を手伝いました。ある車両の救出の際には、通りがかりの方が次々と手伝って下さり(総勢8人)、改めて人の優しさの素晴らしさを感じた次第です。
さて、この8人がかりでの作業はかなり困難なものでした。車両の下に相当な雪が入り込んだため、押しても引いても、雪を掻きだしても全く動きません。「JAFを呼ぶしかないけど、すぐには来れないと思うよ」との声も出始めた時、私にある閃きが…「できるだけの人間が車に乗ることで、下の雪を圧縮できるのでは?」。やってみました。フル乗車したうえで押してみましたが動かず。しかし、ドライバー以外が降車して押した時、見事に脱出したのです。その後、他の車両の時もこの方法で脱出できました。
スタックの状況によっては有効な方法かもしれません(乗ってから押すだけなので簡単です)。あくまでも「状況によっては」だと思います。場合によっては逆効果となることもあり得ますので、試される方はご注意願います。

欲しいもの

欲しいもの

なかなか更新しませんが、今年もよろしくお願い致します。(^_^;)

以前から申し上げているように、日本も世界も社会の大きな転換点を迎えているはずなので、これからも様々な出来事が頻発すると思われますが、一喜一憂せずに腰を据えて少しずつ前進したいところです。

さて、子どもにとっては年末のクリスマスプレゼントと正月のお年玉という刺激が連続することで、一年で最も物欲の高まる時期ではないかと思います。先日、我が子が「自分の欲しいものベスト5を決めたんだけど、お父さんの欲しいものは何?」と聞いてきました。私は「必要なものはあるけど、欲しいものは特にないな~」と答えました。更に「欲しいものがあると幸せになれないんだよ」と付け加えてしまいました。優しい言葉づかいで意味の解説もしたのですが、二言目はいらなかったかもしれませんね(反省)。

熱帯夜に おすすめ

熱帯夜に おすすめ

今年の春は市議選があり、選挙の後も後片付けや挨拶まわりなどで多忙だったため土づくりができず、緑のカーテンは休みの年としました。

そこへきて梅雨明け前から猛暑日となり、家族と私の安眠維持のために何かしなくてはと思い情報収集すると、冷感シーツ や 竹シーツ といった製品を発見。ある程度の効果が見込めそうなので、ダブルサイズを1枚づつ購入しました(各々5,000円程度)。私と娘が寝ている布団に冷感シーツを、嫁さんと息子が寝ている布団に竹シーツをセットして比べてみました。その結果、明らかに竹シーツのほうがイイ。あまりに差があるので竹シーツを追加購入した次第です。

我が家の寝室はエアコン不設置なので関係ないですが、これなら夜のエアコン使用を減らせるのではないかと思います。
環境意識の高い人や寝苦しい夜に悩まされている人におすすめです。
(冷感シーツも竹シーツも結構な種類の製品が販売されていますし、感じ方には個人差があると思われるのでご注意ください)

「自虐」と「反省」の違い ~紙一重のようで大きな違い~

「自虐」と「反省」の違い ~紙一重のようで大きな違い~

安倍政権下で、教科書問題や戦後70年談話などを巡って、自虐史観が問題視されています。
以前に同趣旨の書き込みを行っていますが、若干手を加えて再投稿します。

「反省=自虐」又は「反省≒自虐」と捉えてしまいがちですが、本来は全く違うものだと感じています。
反省は冷静に(客観的に・公平に)省みるものであり、気づきを得ることができますが、自虐は感情的で責め心を伴い、辛くなるものだと思います。反省は個人や国家を豊かにしてくれるものだから必要ですが、自虐は不必要であると私は思います。
従って、過去の国家の行為を自虐的に反省する必要はないと考えますが、反省はしなくてはならないと考えます。

このように、紙一重の違いだけで同じように感じるけれども、実はその紙一重が決定的な違いになっていることは結構あるように思います。
感情的・情熱的、怒る・叱る、競争・競う、非難・批判、急ぐ・焦るといった紙一重に対する感性を磨くと、人生が豊かになると思います。

「生きるために生きる」のか

「生きるために生きる」のか

明けましておめでとうございます。
新年早々 重いテーマで申し訳ありません(笑)。
様々な方と話をしていると「生きるためには食わなきゃいけない、そして食うためには稼がなきゃいけない、だから仕事をしなくてはならない」と考えている人が結構いらっしゃるように感じます。この人生観は「明日生きるために、今日仕事をして生きている」という自転車操業的なもので、単に生きることそのものが人生の目的になっているのではないでしょうか。更にいえば、人によっては「死ねないから生きている」「しょうがないから生きている」という後ろ向きな考え方も感じます。その場合でも、人生においてある程度の喜びや幸せを感じることはできるでしょうが、深い喜びや充実感を感じることは難しいと思います。
「維持している命をどのように使うのか」「自分は何のために生きているのか」を考えることは、充実した人生を送るために役立つものだと思います。

厚木市での事件

厚木市での事件

 厚木市で起こった男児(当時5才)放置死事件の詳細が報道されています。

 外出できないように窓を目張りして鍵をかけ、電気は止められた状態。父親は週に5日ほどは帰宅し食事を与え、着替えさせていたが、だんだんと帰宅する回数が減っていったそうだ。父が外出する時は「パパ、パパ」と服を引っ張っていたし、2日くらい帰らない時は、与えたおにぎりやパンをむさぼるように食べていたとのこと。その後、立ち寄る回数がさらに減ると、子どもは痩せていき、亡くなる直前には立ち上がることができず、パンの袋を自分で開けられない状態で「パパ、パパ」とか細い声で呼んでいたそうですが、父親は1時間ほどで立ち去ったとのことです。

 この子は、一人でどんな気持ちで過ごしていたのだろうか? 寝るときはどんな気持ちだったのだろうか? 朝起きた時はどんな気持ちだったのだろうか? 体が動かなくなってからはどんな気持ちだったのだろうか? 熱かったね、寒かったね、寂しかったね、つらかったね、よく頑張ったね…。この子の気持ちを考えると涙が出てきます。
 父親が批判されています。批判されても致し方ないのですが、でも、以前にも書いたように、この父親にも何らかのつらい経験があったのではないかと想像しています。負の増幅連鎖の結果かもしれません。
 虐待や紛争の巻添えなど、いわゆる弱者がひどい仕打ちを受ける報道に接するたびに心が痛みます。また、このような事件に至らないまでも、縮小版のような出来事はたくさんあります。

 間もなく始まる6月議会で私は自己肯定感ついて議論する予定ですが、今回の事件にも自己肯定感が関わっているような気がしてなりません。

民主主義≠多数決

民主主義≠多数決

「民主主義=多数決」と考えている人が多いのではないかと感じています。また、日本では、政治・行政・町内会などの公的色彩の強い分野においては、民主主義的手続きは確保されているようです。

私は、民主主義における多数決の本来の位置づけは緊急避難措置・非常手段と考えます。時間的制約などによって、どうしようもない時にのみ採用される意思決定方法のはずだと思うのです。

「民主主義は過程が重要」と言われます。様々な立場や価値観を持つ人が、様々な意見を述べる機会を確保することは当たり前で、この点については現在のところある程度実現していると思います。しかし、様々な意見(人)を「どのように引き出し」「どう向き合うのか」については多くの課題があると言わざるを得ません。(この点についての詳細は、ミーティングマネジメントやファシリテーターを検索して概要をご覧頂きたいと思います)

今回は「どう向き合うのか」について述べます。
民主主義においては「全員が納得した(できれば満足した)結論を出す」ことが理想であり、これを目指さなくてはなりません。最悪の場合でも、「これだけ誠意をもって話し合った結論だから仕方ない」という話し合い過程への満足が得られることが理想です。そのためには、心を開いて話を聴く(同意できなくても尊重はする)・感情的にならない・粘り強く対応する といったことが必要になります。これは、やってみると結構大変なことですが、私はこれが民主主義精神だと思っています。
例えば、「国会で50時間議論した」としても、自分の意見の優位性を訴えることや、相手を打ち負かすことを目的としていては不毛の議論になりがちです(そのようなことが必要な場合もありますが)。お互いが一方的に「話す」だけであって、「話し合い」にはなっていないように感じます。
極論ですが、もし「民主主義=多数決」ならば、国政では政権与党内で全て決めて、国会では議論しなくてよいはずですし、実質的にはそのような様相であると感じます。「民主主義精神」なき「民主主義的手続き」は、「結論ありきの議論」として多くの場面で目にしますが、関係者のモチベーション低下などの観点から、長期的には有効ではないと考えます。

さて、民主主義精神を獲得するには、個々人が「話を聴けない原因」「感情的になる原因」「粘り強く対応できない原因」を自らの中に発見し、修正する作業が必要になります。したがって、真の民主主義の実現には多大な個人の努力が不可欠であり、それをやり抜く決意も必要なのだと思います。

娘を守った父

娘を守った父

 最近「昨年3月に北海道で発生した暴風雪被害から1年が経過した」とのニュースが流れました。

 昨年の暴風雪では大きな人的被害が発生しましたが、なかでもいまだに脳裏から離れないのが、娘を守って亡くなった父親のことです。ホワイトアウトという視界が奪われるような状況で車が動かなくなり、ガソリンも少なかったために、歩いて近くの知人宅を目指したそうですが、悪天候で道に迷ったとのこと。自らのジャンパーを娘に着せ、風上に自らの背を向け、両手を娘の体の下に回して抱きしめた状態で横たわって亡くなっていたそうです。二人の上半身は雪に埋まっていたそうですが、娘さんの顔は雪が払われていて、最後まで必死に娘を守っていたのではないかと言われています。当時、娘さんは横たわり「死ぬのかな」と思いながらウトウトし始めると、父親は歌を歌ってくれたそうですが、その声も次第に小さくなっていったとのこと。
 車から出なければよかった…等々、危機管理能力を問題視する意見も聞かれますが、その場その時に最善と考えた行動を取られたのは間違いないでしょう。また、同じような行為は東日本大震災でもなされており、親が子を抱えた状態での親子の遺体が多数発見されているようです。

 悲惨な出来事でしたが、「命はとても大切だが、生き様はそれ以上に大切である」と考える私にとっては、魂が揺さぶられるような出来事でした。
 とはいえ、24時間365日このような熱い思いを前面に出して生きているわけではありませんし、時にはグウタラな私なのですが、心の底ではしっかりと熱い思いを持ち続けて生きたいものだと思いました。

魂そのものに価値がある

魂そのものに価値がある

先日、NHKが「震災後、各地で語られる不思議な出来事」というスペシャル番組を放送していました。
震災で身内を亡くして深い悲しみを抱える人が、亡くなった方に関する不思議な現象を体験するといったもので、4人の方が出演しておられました。亡き人への想いや体験の感想を聞いて、目頭が熱くなりました。

また、先週はアオーレ長岡で「小児がんチャリティー写真展」が開かれていました。小児がんで亡くなった子どもの写真と、その親からのメッセージが展示されていました。メッセージの多くは、亡くなった我が子に対しての想いや感謝などを表現したもので、写真とメッセージを見て、これまた涙が出てきました。

 残された方々の悲しみがストレートに伝わってきました。
 また、人間の存在そのものと言いましょうか、魂と言いましょうか、これが素晴らしいもので、その尊厳を再確認しました。

安全神話 再び

安全神話 再び

 安倍首相がオリンピック招致のプレゼンで「福島第一原発の状況はコントロールされている。汚染水は全く問題ない。影響は原発港内の0.3㎢の範囲内で完全にブロックされている」と発言しました。
 第一報のニュースを聞いた瞬間、私は我が耳を疑うような心境になりました。官房長官は「外洋とは完全に遮断されてはいないが、放射性物質が薄まって基準値を大幅に下回っているので『完全ブロック』と表現した」と説明しています。その理屈を理解できないことはないのですが、私には共感・納得することはできません。極力問題をつくらない安全神話をまだ脱却できていないように感じます。東電自体も「コントロールできていない」と言っているようですし(本文作成時)、東電ではコントロールできなくなったので、最近になって国が乗り出すことになったばかりです(「それも含めてコントロールしている」ということなのでしょうが)。
 さらに驚いたのは、新聞をはじめとしたマスコミが東京でのオリンピック開催を一面やトップニュースで華々しく報道したことです。オリンピック開催は大ニュースでしょうが、国のトップである総理大臣のこのような認識(私は誤認識だと思います)と発言は更に大きなニュースであるはずだと思います。それを、ついでにチョット流す程度の報道でよいのでしょうか? 更に、その報道内容も「総理の説明が決め手となった」「汚染水問題は、これで国際公約となった」といったもので、総理の発言を追認しているような雰囲気が感じられます。「コントロールする」と公約したのではなくて「コントロールできている」と言ったのです。(本心ではコントロールできていないと思っていても、オリンピックのためにコントロール出来ていると語ったのであっても不誠実で問題です)
 オリンピックに浮かれる気持ちは分からなくもないですが、もっと腰を据えて世の中を見なくてはならないと思います。

建前や理想

建前や理想

橋下大阪市長が慰安婦問題に関連して「建前は止めたほうが良い」と発言したとのニュースが流れました。

このニュースとは直接関係ないのですが、私も「建前論」「非現実的」「理想主義者」と言われることがあります。
しかし、政治家こそが建前や理想を語るべきだと思うのです。理想が現実と離れていたら、少しずつでも理想に向かう道を示すべきなのです。また、その道を示すには現実をよく見なくてはなりません。
理想と現実が離れているからといって理想を手放し、現実に翻弄されて漂流してはいけません。

北朝鮮の核実験やアルジェリアの人質事件

北朝鮮の核実験やアルジェリアの人質事件

核兵器を含む強大な軍事力も背景にしながら、世界のルールや秩序を決めている先進国と言われる国々。自国が持っているにもかかわらず、他国が核を持とうとすると非難して制裁を加えます。北朝鮮にも大きな問題はありますが、自分たちが作ったルールや秩序を見直す必要もあるでしょう。
アルジェリアでは「テロリストとは交渉しない」と言って人質を巻き込んで戦闘が行われ、一般市民が死傷しました。テロリストにも大きな問題がありますが、次々とテロリストが生まれてくる社会の在り様に目を向けなければならないと思います。

体罰

体罰

この春に体罰が問題になりました。
殴ることそのものの是非が議論されているようで、それはそれで大切なことですが、行為の裏にある心の状態 ― 怒り(自分に不都合)だったのか愛情だったのかといったこと ― にも着目しなくてはならないと思います。
極端な例ですが、目の前の生徒や知人が包丁を持って「○○○を襲ってくる」などと言って飛び出して行く時には、殴ってでも止めなければならないでしょう。

愛情から殴ったのだとすれば(実際には愛情や怒りが混ざっていることも多いと思いますが)、私はある程度許容できます。しかし、愛情から殴る場合というのは極めて限定された場面(最終手段・緊急手段)であるはずなので、やたらと殴ったり、何度も殴るなどということはあり得ないでしょう。
今回問題となっているのは、怒りやストレスから殴った事案のように見えます。だとすれば、なぜ怒りなどが生じたのか、怒らずに済ますためにはどのようなことが必要か、といった怒りを含めた感情の構造や心の構造から解決策を導かなくては根本的な解決にはなりません。

「殴ってはいけない」という法律や規律を作れば、表面的な「殴る行為」はなくなるかもしれませんが、別の形(言葉の暴力や陰湿ないじめ等)で心の歪みが表現されてしまいます。

安倍内閣

安倍内閣

どんな政権になっても、持続可能な世の中になってくれれば良いですし、今回こそ頑張ってほしいと思っていますが、個人的には期待できないと感じます。一時的な景気浮揚なんかは起きるのかもしれませんが…。

民主党政権で初めての通常国会が開かれた3年前の今頃、お知らせにも載せた「関たかしと語り合う会」での活動報告で私は以下のように述べました。「世の中、民主党政権への期待感が大変強いようです。ある評論家が、民主党政権は『始まりの始まり(これをきっかけに新しい政治がはじまる)』か『終わりの始まり(これをきっかけにこれまでの政治が終わりに向かう)』か分からないと発言していましたが、この視点に立てば私は終わりの始まりだと思います」

残念ながら、今回の自民党政権にも私が常々述べている「モノの豊かさの追求→心の豊かさの追求」や「競争→共生」といった価値観の転換を感じることができないのです。政権の最大の課題は経済再生だと安倍総理は語っています。経済はとても大切な要素ですが、以前から述べている通り、それよりも大切なものがあるはずで、その最も大切にすべきものをしっかりと構築しつつ経済対策に取り組まない限りは経済問題も根本的には解決しないと思います。

踏んでしまったカマキリから生き様を教わる

踏んでしまったカマキリから生き様を教わる

1ヶ月ほど前の出来事です。野外で立ち話をした後、体の方向を変えようと後方に足を踏み出した時、足の裏に「グニュ」という感触が伝わりました。瞬時に足を上げて地面を見ると、産卵が近いと思われるお腹の大きいカマキリがいて、その腹から内臓のような卵のようなものが飛び出しているという痛々しい状況になっていました。私が罪悪感を抱きながら見守っていると、つぶれた腹と左の後ろ足を引きずりながら、目指していた方向へ引き続き進んでいきます。「コノヤロー」と私を睨みつけることも、うろたえることも、「何が起こったのだ」と周囲や自分の体を確認することもなく。

生物としてはカマキリと人間では大きな違いがありますが、他方では生物(生命)という共通点もあります。人間の脳ミソを除いた純粋な生命エネルギーは、実はこのカマキリが示してくれたように、淡々と、しかし力強く生きていく凄いものなのかもしれません。
(今回気づきましたが、生命って、命を生かす(生きている命?)って書くのですね)

選挙が終わりました ~よく受けた質問~

選挙が終わりました ~よく受けた質問~

過去最低の投票率と活動自粛という、草の根候補者には厳しい状況での選挙でしたが、4期目のスタートを切ることができました。今後も「持続可能な社会」と「信頼される議会」の実現に向かって努力していきます。

さて、選挙中によく原発についての質問を受けたので、私の考えを述べます。

私の価値観や考えに触れている方は推測できると思いますが、以前から原発には反対の立場です。今回の福島原発のように、万が一の時のリスクが大きいことと、仮に安全に運転できたとしても、使用済み燃料などの放射性廃棄物の管理が数万年に渡って必要なことなどが理由です(安定した地層に埋める計画ですが、今回の津波のように想定外に地層が動く可能性も考えるべきです)。しかし、握りこぶしを振り上げて反対運動するというよりは、低エネルギー(省エネ)社会の構築と自然エネルギーの普及を図って、原発の必要ない状況をつくることに力点を置いてきました。

また、原発に限らず、地球温暖化の問題や、国や自治体の借金問題など、未来世代に負担を押し付けて維持しているのが今の文明で、ゆがんだ文明と言わざるを得ないですし、そのゆがみがあらゆる所に噴出しています。未来世代をはじめ、誰かを犠牲にした幸せというのは本当の幸せとは呼べないと考えます。未来世代のことを考えて、価値観の転換も含めて社会をつくり直すと、その社会は、実は今生きている我々にも幸福な社会になってしまうと思います。

東日本大震災

東日本大震災

地震から一カ月以上たちましたが、報道を見る限り被災地では落ち着きを取り戻してはいないようです。被害の大きさもさることながら、混乱期が長期になるほど、精神的・肉体的な限界に近づくと思われるので、心配しています。

世界でも、銃弾やミサイルが頭上を飛び交っている地域がありますし、内戦などによって、目の前で親を殺害される子供もいます。飢餓に苦しんでいる人々もいます。

早く、平和な世界が来ますように。皆が幸せになれる社会が実現しますように。祈るとともに、自分の日常の一つ一つをしっかりとこなしていこうと思います。

伊達直人(タイガーマスク)現象 を聞いて思うアレコレ

伊達直人(タイガーマスク)現象 を聞いて思うアレコレ

一連の報道を見聞きして、とても感銘を受けました。
12年前に長岡市議となってすぐに、長岡にも児童養護施設(親からの虐待などで、親と暮せない子供が暮す施設)があることを知り、関心を持つと共に若干の関わりをもってきました。世の中、いろいろと苦労している方々がおられますが、親や親族の愛を受けることが困難な状況にある子供を思うと、とても切ない気持ちになってしまいます。以前、生きるエネルギーについて書きましたが、幼い頃に親から抱きしめられ、認められ、愛されることが生きるエネルギーの大切な要素であると考えているからです。皆さんも、自身の幼い頃を思い出していただけると理解しやすいのではないかと思います。そのような状況の子供に思いを馳せ、そして、支援の行動を起こされた方々が多数おられたことは有難いことです。

また、阪神大震災以来、日本にもボランティアが広がっていますが、今回の件で、世の中の役に立ちたいと思っている人々がかなりおられることが改めて分かったのではないでしょうか。自分の共感できる貢献方法が示されれば、行動に移す人はたくさんいるのだと感じました。

さて次は、伊達直人現象の発端となったランドセルについてです。
私の長女は4月から小学校に通います。これまで、幼稚園の制服やピアニカ、お道具箱といったものまで知人からのおさがりで賄ってきましたが、さすがにランドセルは回ってきません。昨年の秋から「ランドセル買わなきゃね」と家族で話していまして、長女もチラシやCMを見て「早く欲しい」とワクワクしていました。そんなある日、リサイクルショップに買い物に出かけると、そこにランドセルが一つだけ売り出されていたのです。見つけた長女は「これ欲しい」と言います。価格は1,500円で欲しかった赤色。中古品であることは分かりますが、程度の良い新古品といった感じです。新品ではウン万円のものが1,500円。私も嫁さんも、一瞬「ラッキー」と思ったのですが、「人生の記念すべき節目だし、6年間使うものだから」ということで「もっとたくさん置いてあるお店で選ぼうよ(新品を買ってあげるよと言う意味で)」と諭して店を出ました。しかし、欲しかったランドセルを見てしまった彼女の気持ちは収まらず、車に乗った後も「やっぱりアレが欲しい」と言います。結局、本人がそこまで欲しているならば・・・ということで1,500円のランドセルを買いました。
以来、数人の知人にそのことを話すと、「ひどい話しだ。新品を買ってやれよ」といった反応が示されます。知人達の気持ちはよく分かりますが、「それにしても日本は贅沢になったものだな~」と感じています。

国政の機能不全

国政の機能不全

私は衆議院議員の秘書時代に、永田町(国会)と霞が関(官僚)の実態を見て、「ここから国が良くなることはない」と感じ、「小さな組織(地方)のほうが風穴を開けやすい」と思い、地方議員に立候補しました。実力・能力的にも国会議員になんてなれませんし、なりたいとも思いませんでしたし(笑)、これまでの政治家とは異なる私の考えに賛同していただける方は、どんなに頑張っても最初から多数ではないだろう(12年前の状況ですが)と覚悟していたことも理由です。

そして、国政がいよいよ行き詰ってきました。どの党が政権を取っても、誰が総理になっても好転しない状況のようにも見えます。
今後はおそらく、橋下大阪知事や東国原元宮崎県知事、そして「みんなの党」などの第3極に国民の期待が集まるのではないかと思いますが、これらの方々や政党にも新しい時代の価値観は感じられないので、関たか通信12号で述べたように、しばらくは国政の迷走が続くことを覚悟しなくてはならないと思います。
しかし、国政が迷走しても我々一人ひとりの生活は続けていかなくてはなりませんので、地方政治の重要性はさらに高まってくるでしょう。地方政治も迷走は避けられないでしょうが、ここはひとつ踏ん張って、地方の中から次の時代にふさわしい「まちづくり」やライフスタイルや政治形態を生み出していきましょう。

母が他界しました

母が他界しました

先月、母が他界しました。
「休むのが苦痛」と言うほどの働き者でした。
母は9年前に脳梗塞で倒れ、半身不随と失語症を抱えて不自由な暮らしを送ってきました。しかし、切望していた孫を7人も授かり、また、これまでは家族のために一生懸命頑張ってきた母が、最後の9年は皆から世話してもらえた(家族からすれば世話させてもらえた)ことなど、これまでの人生の総決算ができた9年だったような気がします。
「もっと○○してあげればよかった」といった後悔や悲しみは湧いてきますが、同時に感謝の気持ちも強いので、これからも精一杯生きていこうと思います。

心の仕分け

心の仕分け

最近、事業仕分けに注目が集まっていますが、今日は「心の仕分け」について考えてみました。
私は自分自身と向き合う(自身を見つめる)ことが趣味でして、年々少しずつ深まってきている状況です(だからといって、誰かと比べて優れているということではなく、以前の自分より内面が充実してきているということです)。これまでの過程で、2度の大きな仕分けがあった(正確に言うと仕分けの重要性やポイントの発見です)ので、自分の体験を基にして述べてみます。
*以下の記述では、私の体験上、感情=怒り・焦り・不安・恐怖など(いわゆるマイナスの感情)となっています。

1度目は8年ほど前に気付いた「判断と感情」の仕分けで、日記欄「レジにて」(2002年)で簡単に述べています。
2度目は昨年に気付いた「感知と判断」の仕分けです。まだ十分に実践できていませんが、「判断と感情」の分離がある程度までできるようになった時、これ以上(完璧に)分離できないという壁にぶち当たりました。感情の度合いを低減させる(抑え込むのではありません)ことはできても、それ自体をなくすことができない為に、自分の目指す人格や人間性にこれ以上近づけないという状態になったのです。その時浮かんできた答えが「感知と判断」の分離で、自分の目や耳で捉えた物事を自分の価値観で判断するのではなく、ただ感知(認識)するというものです。例えば、夜に読書している時に外で誰かが騒いでいたとしましょう。心の中では、「騒がしいな」→「俺が本を読んでいるのに邪魔だし、非常識な騒ぎ方だ」→「(イライラして)何があって誰が騒いでいるんだ、怒鳴りつけてやろうか」となります。騒ぎがすぐに収まってくれればいいのですが、長引くと更に心が乱れていきます。これを、「騒がしいな」という認識で止め、その先に発展させない(多くの場合、発展させる必要もない)というものです。これは、今の自分にはとてつもなく大きな課題です。44年間、物事を感知した瞬間に自分の価値観(自分本位)で判断することを自動反応として続けてきましたので・・・・。しかし、「判断と感情」の仕分けに気付いたときも同じように大きな課題だと思っていましたが、数年かけて前進させることができたので、今回も気長に取り組んでみようと思います。

何となく悲愴感の漂う内容になってしまいました(笑)。
でも、こうやって自分を見つめることで新たな発見があり、精神的に少しづつ楽になっていくのでやめられないのです。21世紀は心の時代と言われていますが、心の仕分けにスポットが当る時がやってくると思っています。

また、少し違った側面になりますが、いわゆる「似て非なるもの」の仕分けも有益だと思います。例えば、感情的・情熱的、怒る・叱る、競争・競う、執着・愛着、非難・批判、頑張る・精一杯、正義感・正義、受け入れる・受け止める、言う通りにする・言うことを聞く等など。これらは、根底に愛があるかどうかが違いになっているものが多いと思いますが、自身の言動がどちらに軸足を置いているのか(混在している場合も多いので)を認識することはとても大切だと思います。