先週の日曜日、履いていたシューズの底がはがれてしまいました。はがれた底の部分を何故かじっと見つめてしまいました。そして「ハッ」としました。なんとそのシューズは12年前に当時のアルバイト先のスポーツ店からもらったものだったのです。ビジネスシューズではないので毎日履いていたわけではありませんが、かといって特別な日にしか履かなかったという訳でもありません。完全に私の日常の風景の一部でした。思えば大学卒業以来、サンダル以外のプライベート用シューズは買ったことがありません。「良くぞここまでもったものだ」と感傷に浸っていると、また一つの出来事が思い出されました。
今年の9月、滋賀大学経済学部バドミントン部のOB会に3年ぶりに参加した折、シューズを頂いた「栗田スポーツ」へ恒例の挨拶に伺いました。「なんとなく雰囲気が暗いなー」と感じて店先に着いた時、なつかしのオバチャンが一言「関君、大変な事になったんや」「お父さん(社長)が死んでもうた・・・・・」。
栗田社長にはお世話になった。貧乏学生だった私に、バイトが終わるといつもズボンのボタンを外さなくてはならないくらいにメシを食わせてくれた。「スポーツ店のバイトだけでは稼がれへんやろ」と言って家庭教師先を探してくれた。一生懸命ためたお金で卒業旅行へ行く時、大きなリュックを貰った。「関! 何してんねん」としょっちゅうからかわれた。彦根(大学と栗田スポーツのある市)への大型スポーツ店の進出を阻止する為、社長自ら野球のバットを持って出撃していった。口は悪いが、心の暖かい人だった。その社長が亡くなった。社長なりの精一杯の人生だったのだろう。オバチャンが話してくれる「たまに関の話しもしとったんや、どうしてるかなって。いつか佐渡へ行って、帰りに関んとこ寄ろうなって」。3年ぶりの訪問の為、私が人生の大きな決断をして議員になった報告もまだしていなかった。
人の死、特に身近な人の死にめぐり合うたびに次のように考えます「人間ってなんだろう?人生ってなんだろう?」と。人間(生命)はいつか必ず死に至ります。どのように死ぬのか、死ぬまでに何を成すのか、自分の人生、今現在から将来を見るのではなく、自分が死を迎える時から今現在の自分を見てみる。案外こんな視点が大切なのではないでしょうか。