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生きる力(エネルギー)はどこからくるのか

生きる力(エネルギー)はどこからくるのか

  • 2006年03月29日(水) 00時00分
  • 分類:日記
  • 投稿者:admin

 身体の生きる力は、食物から栄養を取ることです。

 精神の生きる力は「自分は価値があるのだ」と感じることだと思います。

 ただ、自分の価値を感じるためには二つの方法があります。一つは、他者との比較・競争において優位または劣位でない(「世間並み」はこの範疇に含まれる)ことによって感じることができるが(相対的価値)、そのためには常に他者に注意し、観察しなくてはならず、更に他者からの評価も気にかけなくてはなりません。この方法では、安らぎや足るを知る心境にはなりにくいと思います。

 もう一つの方法は、他者との比較競争ではなく、己自身の中にかけがえのない素晴らしさを感じることです(絶対的価値)。この方法では、人に優しくしたいとか物事を達成するために他者を観察することはあるが、他者の評価を過剰に意識する必要はなく、安定した気持ちを持続しやすいのです。最近の教育界では自己肯定感と言っていますね。

 自殺者や凶悪犯罪の増加、子供の変調、戦争、社会不安の増大をはじめ、現代社会の諸々の問題の根本原因は、多くの人が相対的価値によって自らの生きる力を得ようとしていることにあると感じています。

 現代人は、幼い頃から他者との比較競争の中で育てられています。幼いが故に絶対的価値を知らないので、親から認められ愛されることによって「自分は価値があるんだ。生きていいんだ。生きるって楽しい」と感じ取ろうとするのです。子供は、生きる力(愛情)を与えてもらうので、親が大好きです(親が全てかもしれません)。親からの虐待を受けている子で「親は悪くない」とか「虐待を受けていない」と言う子が多いのはそのためです。

 その親が、成績がよかったら誉め・愛し、成績が悪かったら「もっと頑張れ」と言い・怒ったとしたらどうなるでしょう。子供は、親から認められ愛されないと生きる力を失うので、親の基準(人よりもとか、人並みにといったハードル)を何とかクリアしようと精一杯頑張ります。しかし、他者との比較においては、自分が努力しても望み通りの結果がでないことは多々あり、そのたびに親からの疎外感にさいなまれ、徐々に生きる力を失っていき、ひどい場合には精神に異常をきたしてゆきます(その異常なエネルギーが外に向けば殺人などの犯罪につながり、内に向けば引きこもりや自殺につながります)。成績に限らず、「○○チャンはもう箸を使える」とか「みんなは自転車に乗っている」といった基準で子供を評価することも同じでしょう。

 このように、まさにモノゴコロのついたときから比較と競争の世界に放り込まれ、自分への評価を過剰に気にし、自らの生きる力・生きる価値・生きがいを相対的価値によって感じ取ろうとする人生がスタートします。

(礼儀作法や道徳を教えなくて良いと言ってるのではなく、そのベースに愛情が必要なのだと思っています。例えば、口やかましかった学校の先生で、卒業後にまた会いたくなる先生と、もう二度と会いたくない先生がいますよね。その違いは何かというと、前者は生徒に対する愛情から叱り、後者は自分の都合や正しさから怒ったのだと思います。)

 もし、親が子の存在そのものを認め・愛したとしたらどうでしょう。

 五体不満足の著者である乙武さんが生まれたとき、お母さんが「なんてかわいい子でしょう」と言ったそうです。「なんで我が子に手足がないのだ」とか「かわいそう」といった言葉ではなかったのです。つまり手足があるのが普通という基準で子を判断したのではなく、存在そのものを愛したのです。存在そのものを愛され・認められた子は、人と比べてではなく、自分自身そのものの素晴らしさを体感して、自分を愛し・信じ・認めるようになります。そして、自分を愛し・信じ・認めることができた時に、他人を愛し・信じ・認めることができるようになるのです。自分のことさえ愛せないのに他人を愛せる、自分のことさえ信じれないのに他人を信じられる、ということは非常に難しいものだと思います。

 世界の先住民族には様々な大人になる儀式が存在します(先住民族は物質的に遅れた人たちなのではなく、精神的に進んだ人たちだと思います)。断食だったり、孤独な山ごもりだったり、バンジージャンプであったり・・・・。私が感ずるに、これらの儀式を通して自分を見つめたり、達成感(=自信)を得たりしている気がします。つまり、先住民族における”大人”の定義は、「自分で自分の絶対的な素晴らしさを感じていること」なのだと思います。そして、自分で自分の素晴らしさを知っている人は不動心(「我がまま」ではなく「我が・まま」)を得て、いろんなことに左右されなくなります。いろんなことに左右されないから、物事を有りのままに見つめて最善の選択ができます。最善の選択ができるから、周りの人たちにも認められ、いわゆる長老となっていきます。

 翻ってみて、今の日本には本当の意味での大人がどれほどいるでしょうか。体は大人でも、精神的には子供(他人の評価を生きるエネルギーにしている人)が多いといわれています。今の日本の惨状は、本当の大人が減少したことによると思うのです。でも、本当の大人になるのは簡単です。以前にも書いたように、比較と競走の社会に埋もれて自分の外ばかりを見るのではなく、一度立ち止まって自分自身を見つめる(自分の感情・思い癖・正しさ・生い立ちなどを見つめる)ことによって、自身の絶対的な素晴らしさに気付くことができるのです。

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